何一つこの世のものに、自分の所有するものなどない。
「自分の」という妄執から人の苦しみは産まれる。
この体という肉体もレンタルだ、死すら自由に定められもしないし歯痛を自分で制御さえできないこの肉体の一体何が、所有物だ?自分の。

3時間前の俺と12時間前の俺と3日前の俺と1週間前の俺と1か月前の俺と3年前の俺と10年前の俺と30年前の俺は、初期仏教的観点からすると当たり前だが、全員別人だ。しばばんR2300としばばんアルケミーとしばばんBOOst-BLACKLESSとしばばばばんとシバンとシヴァヴァンとしばたさんとしばっちゃんは違う人。細胞からしてもう違う。

「日々の生活を離れて、悟りはない。」
道元の言だ、正確に、解脱に達した人間の言っている言葉だ。
人の人生一瞬一瞬が、本気、マジ、大事だ、と俺が口を酸っぱくして言い続けているのは、こういうことなんだ。

俺は陽キャでも陰キャでもない。
その概念の二つがきっとあわさって、存在している。形成されている。
人間の人格とは、そのとき、そのとき、の文脈や状態によっていかようにでも変わる。
ゆえにこれこれこうである、と、完全に固定した性格がそもそも存在しないというのが俺の見地だし、
自分を含めた人の性格や人格を尊重するならば安易なレッテル1枚ですべてが表現出来るはずがないことにまず、いつしかの段階で気づくものと思われる。
真摯に考えるならば。
本当に偽らず誠実に考え抜くならば…
レッテル貼りは避けたほうが皆の為に賢明だろう、自分ももちろん含めて皆のため。
我々を構成する1兆の細胞がこうしてる今も生き死んでいるように、
今この瞬間は2度とこない、
一瞬、一瞬、人は死に再生する。
そこにこれこれがわたしである、という「実体」はない。
これを仏教では、無常という。

仏法僧の三法のうち、法を友とせよ…普遍的な真実を友とせよ、と俺は背中を押されている感じがするんだ。
友が人間以外の場合もある。

それぞれの位置から
それぞれの感じる、完成へと…
狙いを定め、理性を働かせ…
輝くんだぜ…
輝いて、幸せをも越えて行く気概で、毎瞬の死を感じ取り、その認識の「瞬間」「瞬間」を、
短くしていくんだ…
仏陀曰く1万分の1秒の間隔で人はこの世界を作り出している、という説がある。
そこまで今世で辿り着ければ、いいんじゃないか。解脱ができない存在などいない、選ばない選択肢は無限に近くあっても…
仮にその前で朽ち果てても、幸せに、笑顔が増えた日々の中で、
冷静に次の段階へと移れるだろう。
まるで中学校から高校へと進学するかの如く。
youtube.com/watch?v=_LzIYlNCuP

浮足は、浮足立つってことは、浮かばれない結果に大抵は落ち着く。
それは、仏教では「じょうこ」と呼ばれる状態だ。
浮世だからって、浮足立っては、地に足がつかなくなってしまう。
気を付けて、考えるんだ、悪い循環があるならそれから抜け出すわずかな隙間を見つけに。

掉挙(じょうこ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

掉挙(じょうこ)は仏教が教える煩悩のひとつである。

掉挙とは、心が昂ぶり頭に血が上った状態を指し、対義語である昏沈(心が深く沈んだ状態)とともに、平静な心を失っているため煩悩とされている。

上座部仏教では、14の不善心所のひとつ
大乗仏教では20ある随煩悩心所に分類され、そのうち大随煩悩のひとつ[1]
瞑想においては、その妨げとなる五蓋のひとつ
サマタ瞑想においては、5つの障げのひとつ
パーリ経典においては、十結のひとつ

仏教用語
掉挙, アウダティヤ
英語 excitement
restlessness
ebulience
flightiness of mind

仏陀はその一生と在りようと説いた内容がデカすぎて、二次創作が2500年ぐらい続いてる人だよね。ある意味。🤔

異世界転生モノがこんなにある、すなわち…
人間は放っておくとかように輪廻を繰り返し、
つまらぬもろ事を繰り返すのであり、
その繰り返しから解脱する道を見つけることこそが人間が生きる目的として至上のものなのである、いい加減飽きよ、それを知れ、というメッセージが隠されているのだろうか

ドクターの名は、「どくとるあるぱか」という。(インナーネットネームである)アルパカの群れにはサルの群れのようにボスがいない、その生態系に独自の感銘を受け自らネットでそう名乗り始めた森田療法の研究者、追随者だ。独立開業をコンサルの元去年11月に行いブログとツイッターをやっている。
ホームページはここだ。
nasu-cocoro.com/

第2次ブロン依存期を断ち切ってくれた過去を彼は持ち、長い付き合いになっている、お互いマンガがとアニメの好きなエリアがよくかぶる。というか診察が20分その時期時期のアニメと漫画の話で終わってしまったこともよくある。
俺の霊性のいろいろについても知ってくれている。(難解ゆえにテキストは進呈してもどうも読んでくれなかったが、奇跡のコースの)だから俺も彼を受け入れている。けものフレンズのアルパカのフィギュアを診察室に置いている、尊敬しているドクターだ。

ゴータマ・ブッダは、ヴィッパサナー瞑想によって解脱に至った、というのがテーラワーダ仏教の在り方で、自分以外の衆生をも救う大乗仏教を行うにはゴータマ・ブッダが菩薩として生き修業しとてつもない年月と輪廻を繰り返してたどり着いたように無限遠のかなたにその覚醒の瞬間を求めなければならなくなる、という見方があります。
他力を旨とする日本に伝来した大乗仏教からはむしろ変わった考え方のように思われるのかもしれません。

マインドフルネスは、テーラワーダ仏教におけるヴィッパサナー瞑想の非常にきつい部分(瞬間ごとに何を認識したかを確認し続けなければならない)を抜いて、現代社会人でも実行可能にした瞑想、のように思います。

LSDと瞑想、めちゃくちゃな組み合わせに見えるでしょう?
実はこの組み合わせには一つの共通項があるんです。
それは「変性意識状態」といいます。
「変性意識」はとてつもなく当人にも、のちの人生に関しても、強力な影響をもたらすモードです。

LSDなどサイケデリックスを接種した人、各武道の極まった人や、ジョギングやマラソンランナーの「もう走れない!」というランニングハイ状態、ヨーガ行者のポーズ、禅僧の瞑想、これらに共通しているのは、その人が「変性意識状態」に到達しているということです。(なんで敬語になってんだろ…。うまくいえてなかったらごめんなさい)

この状態(「ゾーン」と呼ばれることもあります)においては、人は洗脳されやすくなります。この仕組みを悪用したのがオウム真理教です、平成の大惨事ですね。
逆に、いいことを自分に擦り込めばいい人格にもなれます。なっちゃいます。

初期仏教では、時代の流れなどで変わる真実(地球は丸いのか平らなのかなど)を「世俗諦」と呼び、変えることが不可能な「真理」(認識の主体として自分が存在するなど)を「勝義諦」と呼んだ。

仏陀は、性欲が如何に仏道修行者にとって駄目かという例えとして、相当の美女を前にして「そなたは糞尿袋である」と言い放ったことが記されている。

同じ一つの事物について、語る観点の違い、解脱へと導くやり方の違い、すなわち、方便の違いしか大乗と上座部を分かつように見える壁は無いように思えもするが、
テーラワーダと大乗はお互いを無力と思い合う傾向はやはり存在している。
キリスト教とイスラム教のように殺しあう争いこそしないが、お互いをやはり否認している節はあり、それが日本人の正しい仏教の理解に影を落としている節は強いのではないかと思う。
仏陀自身は、それをも含めて、見守っているような、気がする。

「仏教思想のゼロポイント」を読んでいる…
人類において恐らく最上の叡智に達していたであろうゴータマ・ブッダは、いったい、正確には何を言っていたのか?
そこに少しでも実際的に近づくにはどうすればよいのか?何を学べばいいのか?どう生きればいいのか?どう存在すればいいのか?
俺のかかりつけの精神科医は、森田療法に生涯を捧げる過程で親鸞を一時期読んでいたらしいが、
俺はそういった北方・中国伝来の「他力」の大乗仏教の前に、
あえて南方伝来のテーラワーダ(上座部)の「自力」の観点から仏教を解きほぐしてみたいと選んでいる…

お勧め、初期仏教。シンプルな事実を言っていると解る。
仏陀の最初期のスッタニパータとか、素晴らしい。

nicovideo.jp/watch/sm31718905

お経というのは、それ自体解説が2重に要ったりするように、1字1字に凄まじい意味合いがコンテナのようにぎゅっと濃縮収納されてる側面があって、音楽的開拓の余地、表現的開拓の余地を感じる。

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