小脳は3層パーセプトロンの集合によく似る。つまり学習するために理想と現実の誤差をフィードバックする必要がある。たとえば弓で矢を射ったが外れたとき、上なり右なりズレを検出して次は補正する訳だ。
そうして試行錯誤を繰り返すうちに狙った場所を射れるようになる。単純にして強力無比である。
ではその「運動感覚と実際の結果との誤差」はどこで検出しているのか。運動前野や1次運動野というのがその答えである。たとえば「右上の誤差」を選好するようなニューロンがあり、これを電気刺激することで運動者を左下にどんどんズレさせる、なんてことができている(2016:first.lifesciencedb.jp/archive
なお、ここで検出された誤差は延髄の下オリーブ核を経て、小脳にフィードバックされる。(延髄は脳の一部。脳幹の最下部にあって小脳・大脳と脊髄……つまり脳と全身を繋げる部位である)

覚醒とは現実の弁別であり、夢想とは現実を括弧に入れることだ。思索はその中間にあり、仮想の現実を立ち上げて好きに条件を組み替えて検証するためにある。
過学習して現実に寄りすぎれば応用が効かないし、遊びすぎで現実に即さなくなると実用できない。幾つになろうとよく学び、よく遊び、よく考えよう。

脳幹の網様体賦活系(RAS)は覚醒状態を維持するために脳の処理対象を選別する働きがある。手で書くという行為はRASを刺激し、意識の集中を作り出すことが確かめられている。
「認知」とは意識するつど自己組織化する情報統合体だが、その実態は潜在意識下のサブストリーム群の集合である。手書きすることで無意識部分が活性化&高精細化し、認知の質(覚醒度)はぐっと高まる。
私たちにはPCやスマホがあり、死ぬまでにアウトプットできる文章量はかなりのものだ。しかし手で書ける文字量はそう多くはない。
たとえば「意識とは相互に編集し続ける『多元的草稿』だ」とペーストするのと、そう紙に書きつけるのとはあまりに違う。後者には緊密な動作と個人の時間がある(考え、記し、手繰り、刻み、想い、綴り)。
じっくり「書く」時間がどれだけあるのか。それは自分の頭で考える時間をどれだけ持てているのか、という問いでもある。

「AI・人工知能EXPO」のついでに「クリエイターEXPO」を覗く。ずらりと並ぶは一人ずつ座った作者とその作品たち。イラストの仕事お受けします、というプロたちの狩場である。
コミケとかだと売り子も多いから、クリエイターと作品だけで満たされた空間ってのは稀有だろう。
入ってみるとスタンド使いの集会という感じで、それぞれが背負ってる作品の圧と、本人の顔や振る舞いの圧がすごい。
個性に悩み抜いて発露を重ねてきた、そんな歩く迷宮みたいな生き物が並んでいる……。

夜更かしして石塚真一『ブルージャイアント』を読んでいる。たまらんのである。
息苦しいほど真摯で、震えるほど熱い。

自分にしか出せない音を、と。ただそれだけのためにまっすぐ、必死で。聞いた周りを圧倒し、涙ぐませるような。

心に風、踵に火を。

モーニングKC
白浜鴎『とんがり帽子のアトリエ』

絵も構成もプロットも演出もレベルが高い。特にコマ割りの工夫と、情景の収め方、手指の表現力が群を抜いている。

隅々まで工夫の凝らされた工芸品みたいな面と、分かりやすさ親しみやすさが同居しているのもすごい。

いま二巡目を読みながら一ページごとに目を瞠っている。

死んだらすべてを失ってしまう?

あっはっは。なにも持たずに生まれてきた人が、なにかを得たような錯覚のもと過ごして、なにひとつ持ち出せずに去るだけじゃないですか。

46億年前から使ってきた設計図をもとに塵から作った精密機械が、周囲の精神を写し取りつつできたモノが人間です。オリジナリティなんてちっともなくて、条件さえ揃えば何度でも再生する。

ましてその精神の影や、肉体の欠片ともなれば、世界のそこここに散らばっていて当然です(たとえば現生人類は一人の母親から生まれたその末裔ですから、誰もが遠いきょうだいです)。

そしてなにより、その人と付き合ってきたあなたの中に、見て触れて感じて想って写し取ってきた像があります。たとえ遠く別れたとて、それはずっと残るはずで、いつでも会話できて勇気さえもらえるのです。

そんな訳ですからなにひとつ心配せず、精一杯に生きて生きて生きて、最後は笑顔でありがとう、またねって言いましょう。

「すべてを容赦なく調べなさい」
「とくに一つの何かの作品の細部に入っていきなさい」
「離れてはいけない、飛び越えてもいけない、わかったふりをしてはいけない」

そうして「ついにそのもののもつ独自性と神秘性のなかにその正体を見るまで追い詰める」

折に触れて思い出す、アニー・ディラードが教えてくれたこと。

幸せとは、己と世界とを合せることである。「花あるときは 花に酔い、風あるときは 風に酔う」こと、これはひとつの仕合せである。
どんな困難も己を合わせられさえすれば幸せになる(旧約聖書のヨブのように)。どんな豊穣でも己を合わせられねば不幸せになる(出家前のシッダルタのように)。
納得することは幸せの大きなテーマだ。だから自分の頭で考え抜くこと、自分の体で感じ取ること。このふたつを習慣にしよう。真摯の積み重ねに幸せは宿るのだ。

幸せとは「仕合せ/為合わせ」。つまりは「モノとモノを合わせるために何かすること」である。(「仕合い」は互いの仕合せがないと成立しない)
昔は「仕込みがよい」というような意味で「仕合せがよい」と言った(仕合せが悪いももちろんあった)。天と私をうまく合わせること。それが仕合せだった訳だ。
そこに「幸(さきわう/さかえる/さかいをつくる)」の字を当てたことで、よい仕合せだけが幸せとなった。

アイスランドのシンガー・ソングライター、Ásgeirの『In the Silence』が最近のお気に入り。
明るい静けさと愁い、軽やかな歩みと願い。家事をやるときのBGMにも重宝します。

「知る」と「できる」は大違い。
「できる」 と「やる」は大違い。
「やる」と「やり続ける」は大 違い。

(私のように)アンケート用紙にびっしり厳しい評価を書く人がいて、そんなの読んだら落ち込むだろうに、この人はめげずにやり続けている。それはすごいことだ、といま改めて感心したり。

某社の社内向けの一日セミナーを受けたら凄まじく無内容で呆然とした(外部受講は3.5万円なのだけど……)。
まあ、56歳のベテランのプロ講師がこれなら私も教える側になれるぞとか、講師を集めてセミナーを運営する側は儲かるだろうとか、そういう視点を得られたのである種の必要悪かも知らん。

ニューラルネットワークによる縁起により私たちは概念を獲得する。
まず用例を集めて帰納により定義を決め、次に定義から演繹して用例を作る。その繰り返しの中でメタファーという連想技法によって概念(と相互作用する世界)がより広く、より深くなっていく。

退屈な授業中や電話中に落書きしている人は多いと思う(あとはペン回しとか)。これが案外、馬鹿にできない。
逸れそうな意識の幾分かを発散させつつ、重要なポイントを待ち受ける姿勢を維持できると、拾える情報量は増えるのだ(なにもせずにぼんやりしていたり、手遊びに本気な場合に比べて)。

底で買って天井で売れば必ず儲かるとか、一等を引ければ働かずに済むとか、事実にすがって低い期待値を無視した振る舞いを人はする。
認知の陥穽といえるそれを生徒や家族に向けるとお互い苦しいことになる。親だろうと子だろうとできるのは地道な習慣改善だけだし、得られるのは現実的な結果だけだ(つまりよほどの幸運が重ならないと、自分の思うようになったりはしない)。

なぜ人は人を殺すのだろう。
恨んでいたから?
恨んでも殺すとは限らない。
殺したいほど恨んでいたから?
それはトートロジーだ。
殺せるから?
誰だってできることしかできない。
でもそんなこと言ったら、動機なんて決められないじゃないですか。
だからそうだと言っている。

「人間の行動って、そもそも一つの理由だけで決まっているのではないと思います」「そのときの瞬間的な判断でさえ、いろいろなことに思いが巡るもんじゃないですか」

「人を殺すような場合って、いくら計画的であっても、その真っ最中にはかなりの極限状態だと思うんですよ。そういうときって、もの凄く沢山のことを考えて、よけいなことも思いついて、もう理解できないくらい、とんでもない行動をするなんて、ありそうじゃないですか?」

森博嗣『タカイ×タカイ』

諦めというのは限界まで明らめた末に仮説として得るものだ。
自分が諦めたからこれは明らかな原理だと信じるのは、論理が顛倒してしまっている。

人は「かくあらねば」と己に命じているものだが、内容自体は単なる思い込みや思考停止だったりする。その気持ちはあまり口にされないため、周りも本人も気づかなかったりする。しかし確かにその人の気持ちや行動を決めている。

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