竹田青嗣の欲望論がすごすぎてギリギリする。

#自己顕示欲

票を集めることによって利益誘導がしやすくなり、損をしにくくなる。

支持者が多くなれば立ち位置の不安もなくなる。

票を奪い取ろうとする敵が現れると、票を守るために論破しなければならなくなる。

そして、受ける側のお約束として「支持の表明としての票を出す」ってことがある。それがあるから自己顕示欲が形として成立しちゃうんだな。

もしも支持の表明が行われないとしたら、自己顕示欲なんか持ってても「票集め」という目的には何の影響もないんだから。

#自己顕示欲

でも、たぶんなんか経済的な構造だな。ポランニー的な。

Wikipediaのポランニーの項を見てみると、
---
経済の定義

1. 実在的な定義。欲求・充足の物質的な手段の提供についての意味。人間とその環境の間の相互作用と、その過程の制度化のふたつのレベルから成る。

2. 形式的な定義。稀少性、あるいは最大化による合理性についての意味。
---

とか書いてある。
うん、なんかこの視点は有益な気がする。

ポランニーは物質的な交換に限ったけど、経済性は物質に限定されないだろう。

その物質じゃない経済的なものはたぶん「票」だな。

#自己顕示欲

「私の意見!」を示すことによって得られるものは、他者に対する威嚇とか、承認とか賞賛とか、要するに「自分の価値を高く認めさせること」だ。

これを別の視点から見ようとずっとしててやっとわかったんだけど、他者がいないところでの自己顕示って成り立たないことになる。

他者を過剰に意識することで、自己顕示欲が出て来る。

で、これの根底には「他者に対する不安」があるんだな。

@hokeypokey
#対話

>「対話的である」
>「対話度が高い」

あくまでも、えんたらいふの独自考察であり目安としてです。
①【内省等の内的対話(≒自己対話)の有無】
これに紐づかれているか否かは大きいと思います。対話の成立要件に、いの一番「相互性」を挙げる方もいますが、確かにそれも欠かせない要件ではあると思いますが、内的対話をしていない個々による相互的な営みは会話の域を出ていないように思います。
②【問いの存在】
対話とは「自他への問い」という営みによって起動し推進されるものと思います。問い、質問。まさに、わんこ先生によるこの「質問」というこれ自体。
enta

んで、
これを「AIが論理的な妥当性をどうやって導くのか?」ってことと合わせて考えてみると、AIが出す解答って人間的な正解とイコールにはならないというか、不十分な論理ルールで妥当な判断結果なんか出せないんじゃないか?

...みたいな疑問があったりするんですな、私的には。

「意味の有限性」には別の観点もあって、意味を有限にすることで言葉の役割(性能?)が生まれているわけだ。

「私」と「あなた」は、自分を指す言葉と、他者を指す言葉だけど、これをどちらも「me」を表すことにしたら、「私」「僕」「わし」などの使い分けの意味しかなくなる。

意味の違いが在るから様々な表現が可能なわけで、あれもこれも一緒にしていないことに目的がある。でも、言葉は「物自体」というか「そのもの」を的確に切り取れるものではない。そこに誤解が生じる余地があるんじゃなかろうか。

この意味の有限性は人間にとって世界を認識する役に立つけど、反面、世界を正しく認識できない足枷にもなっている。

こういったことは自明なのかなと思うけど、もっと探求すると今まで見えなかった何かが見えそうな気がしてる。

もうひとつ「意味の有限性」についてだけど、

意味なんてぶっちゃけ人間が勝手に決めてるもんなのでどうにでもなる。だけど、ホントにノールールでどうにでもなるかというと、コミュニケーションするためのものなので、「僕ルール」を認めない何かがある。

だから意味は無限にはならない。

でもそのルールというか制限がどうなっているのかは明確じゃない。

「有限」、
つまり「何かで縛られた適用範囲がある」ということが見えるはずだ。

その辺がなんなのかは探求しないとわかんないけど。たぶんあると思う。

哲学の問題って語義というか意味と言うか、モノゴトの誤解から始まってることが多い。

だから分析哲学とかはその誤解の正体を見極めることが目的になっていると思ってる。

「どうやって誤解が生まれるのか」と考えると、たぶん先入観の排除方法とか、問い方のルールとか、そういった誤解の発生を防ぐ論理的な手法が欠如しているからだと思うんだけど、それを【原理的なものとして解明する】必要があるんじゃないかなと思う。

「現代の高度な哲学」をするためには、論理学の知識が不可欠で、論理学は数学...特に集合論の理解が必要で、数学的な理論と哲学とをうまく結びつけるためにいくつかのプログラム理論やアルゴリズムの知識が必要になる。

必要というか、これらの知識があるとかなり明確に説明できるようになる。

もちろん哲学史の知識も必要なので、そうなってくると頭が追いつかない。

でも、クリプキ、レモン、デイナ・スコット、チューリング、ゲーデル...なんかは、表面を舐める程度でもいいから知っておいた方がいい範囲。

現代哲学がキーワードとしなければならないのはたぶん、「誤解の原理」と「意味の有限性」で、最終的な目標は「モノゴトの捉え方の革新」を目指さなきゃならんのだろうな。

でもこれ、様々なやり方でずっと昔から続いてることなんだよな。

ja.wikipedia.org/wiki/時相論理

@ojk
心屋は「どの角度から見てもクソ」という稀有な人物と思います(笑)

「目的を持つ」とは意味と物語で考えるということ|山本一成|人工知能はどのようにして「名人」を超えるのか? cakes.mu/posts/16229

“第20回で、目的と、目的を設計する知性の重要性はわかっていただけたと思います。

でも、不思議に思われるかもしれませんね。人工知能も、人間から与えられた当初の目的だけでなく、状況によって中間の目的を設計するようにプログラムすればよいのではないか? と。

しかし、今のプログラム言語の枠組みでは、それは実現できていません。おそらく今後も、プログラムが動的に中間の目的を構築するようになるコードを書くことは不可能でしょう。

その理由は、私にもよく理解できていません。率直に言えば、私の研究者・プログラマとしての直感に近いもので、「今のプログラムの構造は、中間の目的の設計が可能なようにできていない」としか説明ができません。

今のプログラミング言語は、人間に作られた、人間の都合にあわせたもので、人間の思考の限界を超えることはできないのです”

哲学って、現代の言葉で言えば「問題解決」とまったく一緒だと思う。クリティカル・シンキングの和訳は「批判思考」なんだし。まさに哲学でしょ。

文系とか理系とか関係なく、また、テーマも関係なく、「設定された問題に対しての向き合い方」が哲学的であれば、それは哲学なんじゃないのか?と思った。

そして、哲学的ってのを問い詰めていった先に、「観点チェンジ」があるのかなと思った。パースペクティブ主義でもいいけど、わかりにくいので「観点チェンジ」。観点チェンジの目的は、要するに止揚するってこと。

通常の論理ではこの観点チェンジが含まれない。ひとつの観点の中で、矛盾するかしないかだけを追いかけちゃうので、異なる視点からの論証がされにくい。ここが論理だけじゃダメなとこなんじゃないのかな。

...とか思いました。

脳科学の、たとえば「報酬系」って捉え方は、どこまで信憑性があるんだろう?

なんか事実のように語られてるけど、ただの仮説じゃないの?

クールビズの28度という温度設定に科学的根拠がなかったって… 28度は労働安全衛生法で定められた守るべき温度範囲の上限らしいですよ。酷いな〜

Show more
mstdn.jp

Mastodon日本鯖です.