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Yuuki Honda @minougun@mstdn.jp

反知性主義者も、反知性主義批判をしている人達も、確認してきた限りでは、その多くが高校レベルの集合論もできなかった=反知性だった。

リベラルの理論が論理的に間違っていると、もはや300年近くにわたって何度も証明されているので、学歴と知性に強い相関関係があるかどうかすら疑わしい。暗記力は関係あるだろうけど。

念のため注意しておきますが、私は活字中毒という強迫観念に取り憑かれているので、そんな人間の言うことは基本的に間に受けないでください。

シナリオと小説の違いについては、結論から言ってしまうと、シナリオと小説はボクシングとキックボクシングぐらい違う。重なっている部分はあるが、基本的には似て非なるモノだ。
まず、シナリオでは原則として内心描写をしてはならない。ゲームのシナリオで、地の文が表示されるものはやや例外だが、それでも基本的に控えめにした方が無難だろう。その代わり、役者の演技や音楽、カメラワークetcがある。
これに対して、小説における台詞は、情景描写や行動描写、内心描写と並んで、文章のストレスメンバーの一要素に過ぎない。台詞に傾注し過ぎてはいけないし、し過ぎた作品はほぼ例外なくゴミになり果てる。

物書きが多く集まっている場所で、文章の上手い下手の話をするのは、あまりお行儀の良い行為ではない。ただ、個人的にそういう作家は好きだけど笑 幸田露伴とか。

具体的に書いてみると、

ジョンはベッドに寝転がった。天井からぶら下がった裸電球が輝いていた。

こんな感じになる。ジョンの動作について記述した後に、彼が見た情景を書けば、「ジョンが~」「ジョンが~」と主語を続けて書かなくて済むので、その分だけ幼稚さが減る。
また、「ジョンが~」「ジョンが~」と書いてしまうのを避けるため、片方の主語を省略する日本語独特の文体、主語省略にも頼らずに済む点も魅力的。文章が上手いか下手かを判断する際に、まず、この特定キャラクターの行動→そのキャラクターの見た情景という二文で一組の文章構成が作品中にあるかどうかをチェックする。できていない作家は100%の確率で下手だ。古今東西、今まで例外は無い。

情景描写の書き方には、大きく分けて(A)特定人物の視点を介しているという制約が入る描写、(B)制約の入らない描写に分けられる。更にこれらの分類に加えて(C)幼稚さを回避するために、同じ単語や文章の重複を避ける、という制限がつく。
まずは(A)の場合、特定人物の視点を通して情景を文章化する、という作業は、特定人物の身体的、心理的な状態と情景が不可分の関係にある事を意味する。
たとえば、ジョンという男性が部屋の中で立っているのか寝ているのか座っているのかで彼が見える光景は同じ部屋でも違う。
次に、ここで制約(C)が加わる。稚拙に見えるので同じ単語を連続して使用してはいけないという制約は、特定人物の行動→この人物を介して見える情景、という二つの文章でワンセットという構成が思いつく。

メイソー本人にブロックされているので、Tシャツを買おうにも買えません。そういう人もいることを忘れないで欲しい。。

『詩学』はテーマ演繹法における創作のノウハウ本として読むのが正解なのに、アリストテレスという名前に騙されて、悲劇がどうのこうのってのたまう人がとても多い。
洋の東西を問わず文芸批評家というのは、どうしてああも理論的にものが考えられないのか、毎度毎度理解に苦しむ。ストーリーを喜劇と悲劇に分類する必然性を考えた段階で、これ以外の解釈はあり得ない。悲劇でも繰り返されたら、馬鹿馬鹿しいものに感じられるのに。当たり前の話だけど。

こういったものは、通常は技術精度が低いアマチュアから出現し、徐々にプロの作品に浸透していくことになる。その理由は簡単で、アマチュアの何パーセントかがプロになるからである。ただし、日本の娯楽に於いて、小説はプロアマの技術格差が非常に少ないジャンルなので、このパロディ化が起きると甚だしいほど強くなる傾向がある。
そして、恐るべきことに、このような問題は紀元前400年前から、既に指摘されていた。アリストテレスの『詩学』だ。

ところが、文章創作における本質、すなわち文章技術における革新が起きているわけではないので、やはり定型化の進行は避けられない。そうなると、最終的に「馬鹿馬鹿しい」という印象は避けがたい。だったら、最初から馬鹿馬鹿しい話を作ってしまえということになるので、ジャンルそのものが溶解した跡地にコメディ、ギャグ、パロディといった「軽い」作品群が林立するようになる。

この段階になると読者の質に変化が生じる。すなわち、とばし読み系の読者が主軸を成すことになる。特にとばし読みが恒常化しており、かつ現実認識が、「現実を不確定要素が多く、一歩間違えれば即破滅。危険が一杯でとても気が抜けない」人たちがコアな読者層にとなり、そういう人にとって、娯楽とは、未来が確定されていることが望ましいので、当然のことながら、これでは新しい読者を獲得することは難しくなる。この段階で発表される作品にも外見上の変化が起こる。それはジャンルの融解という形、たとえば推理小説とSFの融合という形(クロスオーバー)で目に見える形で表れる。

基本的に、テーマ小説を書いている作家に文章の上手い人は1人もいない。これは、現実と幻想の区分が曖昧なタイプの小説、いわゆる幻想小説を書く作家も一緒で、じゃあ、何で駄文が許されているかというと、この手の作品を好む読者の大半が、小説を「とばし読み」しているから。
とばし読みをする際には、テーマ小説のように演繹的にストーリーが決まっていれば、先の展開を予想することが楽というメリットもあるので、多読家になればなるほどテーマ性が前面に押し出された文章を読みたがる傾向がある。
そうすると、まず、あるテーマ小説のジャンルが商業的に成立しているとして、とにかくその中で一定以上の売り上げを上げて、なんとか市場に定着したとする。となれば、後から出てきた作品群の大部分は、前のアイデアと文体を模倣をするので定型化が進行する。要するに、テーマ演繹法による創作を行う限り、使用単語やストーリー展開に極度のパターン化が進行し、誰が見ても次の展開が予想可能な様式化された作品群が出てくる。

小説の原稿を書いていると、文章をなるべくタイトに絞る必要に迫られることが多いから、ここで好き勝手に長文を書き散らしてストレス発散をしたくなる。ぼくが深夜に長文を連投してるときは、そういう気分になっている。

自分は子供の頃から小説は書いてたりしていたので、その経験上、敢えて確実にこれが技術的に役だったと思われるのは、「私は~」「私は~」と、主語の連発を避ける目的で、主人公の人称代名詞である「私」以外の単語を主語にする必要があると思いついて、情景描写を間に挟むという方法を思いついたこと。
それが多分15歳くらいの頃で、そこから、情景描写だけを単独で練習するという訓練を一年ぐらい続けたら、文章力が一気に上がったという実感を得られた、、ような気がする。気のせいかもしれない。あああああ。

文章力を向上させるために、どんな技術習得方法が優れているのか、に関してはぶっちゃけよく分からない。
小説の場合は、まず「同じ単語をできるだけ連発しない」という不文律があって、これに沿って文章を書く練習というか実践を積む。そうすると、重要な技術が「省略」か「置き換え(換称、換喩)」であることが自動的に判る。
判らない人間は文章を書く才能が無いので技術的に上達することはないけど、そもそも文章力はそれほど換金性が高くないから、別に下手でも大して問題じゃない。そもそも、出版社や編集者から見た場合、結構な割合の作家の書いた文章は校閲対象だし。
問題なのはここから先で、「小説文章の技術的な根幹が、省略と置き換えである」と理解している作家が、それ以上の文章力を手に入れようとしたらどうなるかと言うことなんだけど、これがよく判らない。

正解は、

「トイレに行くAと一緒に教室を出たBは、職員室へ向かった」

でした。誰からも反応なかったけど笑

一応、各々で考えて欲しかったから正解はあえて書かなかったけど、このまま誰からの反応もないなら解答を出してもいいかな笑

ヒントを書くと、ここでポイントとなるのは、「教室を出た」と「トイレに向かった」という二つの行動を一つにまとめないと、それぞれの行動に主語がついてしまうので、一つの文章に主語の反復が起きるという点にある。そこをどう解消するかが腕の見せ所で、できない場合は主語を省略するか、代名詞を入れざるを得ないため、どうしても不完全な感じが残ってします。
「文章を短くする」と「同じ単語を一文で重複して使用しない」という原則を守って文章を書こうとすると、どうしても普通とは異なる方法を選択しなければならない場合があるので、ここはセンスと慣れが要求される。

さっきの例文は、(A)同じ単語や同じフレーズを短いスパンで繰り返すと幼稚に見える。という原則に抵触するので悪文だ。
それでは、教室を出るところまで一緒にしてみたらどうなるか?

(3)AとBは教室を出たが、Aはトイレに向かい、Bは職員室に向かった。

これなら「教室を出て」は一度しか使わずに済むが、今度はAとBという人物名と「向かう」が二重に使用されてしまうので、やはり(A)の原則に抵触する悪文である。
さて、ここで文章力があれば、同じ語句を二重に使用せずに一文で書けるはずだ。書けなければ、貴方に文章力がない証拠である。