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cherrytown @r_cherrytown@mstdn.jp

@r_cherrytown 正直、疑問は一つに落ち着くのです。

プロと言うのはほぼ嘘でしょう。あの水準で、特に筆が速くもなく、プロの仕事ができる訳もない。あるとすれば何かの縁で一度誰かのゴーストをやらせてもらった、それも多分最終的に本来の書き手が大加筆した。本人の文章が売り物になったことはないと思います。
名前を出せる仕事はないと言いますが、多分プロとして何もしていない。一度でも商業でやってたら当然指摘されるべきレベルのことが出来てない。
あるいは講義の課題とかでも、書き手の立場にあれば当然意識すべき条件が意識されてない。

世の中には書き手はたくさんいます。CFのユーザーもレベル高い人は何人もいる。大学文芸部レベルでも大抵は彼女より上手い。何故、あんな人が『教授』として迎えられたのか、謎すぎるのです。別のプロからの紹介の可能性があるとしても、うーん。カレッジから、れみぷろから人が去っていった理由が分かったとしか。

一方では新人賞という私から見上げるようなレベル高い人が殴り合ってる世界があって、と思うとCFは本当にぬるま湯以下で。うーん。価値があるのかここ。

@r_cherrytown 端的に言うと、上手い下手というよりプロとして有り得ないレベルの事項があった。例えばドラマCDで名前も呼ばない、話者が分からないとか。キャラの特徴を知ろうとした気配もないとか(Sきさんの標準語は本人の指示らしく、私はその指示を知って唖然としたけど)、あとあれだけ無茶苦茶な削りを要求していたレミ氏が恐ろしく冗長な話を書いてたとか。

物語を強引に辻褄を合わせることはある。ひどいなぁと思う作品もある。でも、その強引さすらない、根本的に破綻してるのを繕う気すらない。何故救世主なのかとか、救世主に何をさせようとしたのかとか。
あるいはドラマCDという媒体でどう描写をするのか。

時間がなかった、手を抜いた、そういう以前にシナリオの書き手としてプロどころかアマでも低い水準にあるのは明らかだった。

踏ん切りは付きました。このレベルで一方的に『教授』として上から語る人に関わる必要はないんだなと。振り回される必要はない、それは無駄だと。
それがコンテストの審査員をやっている現状にはCFへの絶望しかないけど。

@r_cherrytown 私はれみぷろに憧れてカレッジ目指したと公言してます。教授としての高い実力は疑問視していたけど、書き手
仲間として話せる見識を信じてた。あるいは、考え方は違っても何か一つでも得るべきものはあると思ってた。

と言うより、疑いながらも信じたかった。色々気になるところがあっても、やっぱりこの辺はプロなんだな、と言えるものがあると思いたかった。そうじゃないとCFが寂しいし、私も空しいから。

で、そんな中でやっと初めてレミ氏のシナリオによるドラマCDが出ると。冬コミで売られたらしいけど感想は私の観測可能な範囲で一言も流れてこない。
偉そうな言い方をすればこう思ったのです。

これでも自分では見る目はあるつもりだから。
引導を渡そう。
やめとけと言われてもやりたかったと思い続けた自分の気持ちに、レミ氏の実力への疑問に、結論をつけよう。何の意味もない、馬鹿だと自分でも思うけど、全力で作品と向き合ってみよう。

ドラマCDは通販で買って、数時間かけて丹念に聞きました。
本当は自分が傲慢だと思い知らされてみたかった。 講義に出戻りも考えてた。だけど。
結果は寂しかった。

愚痴に属することを書き残す。某カリ○シュのドラマCDと、そのシナリオを書いた『教授』レミ氏の話。

まぁ正直あの場にいる『教授』、S氏は作品をどんどん出してるし外部でも普通に名前のでる仕事をしている。一度しか来なかったゆず氏も作品は出してるしゲーム内で展示されてる。いや、それ当たり前だと思いますが、レミ氏はシナリオの教授とは言いながら作品は提示されていなかった。名前が出ない仕事しかしてないとか本人は言ってましたが。
これだけなら一般論で色々考えられるとは思う。例えば実績にエロとかあって全年齢で名乗れないとか、何らかの契約事情で普段の名前をよそで使えないとか。だけど、四年ぐらい活動していたんだから、例えばCF内で何か出すことは出来たはずですけど。何も出ない以上実力は測れず、ただ講義の内容とかへの違和感が出る。

典型はタイプの遅さで、原稿を手書きしているわけじゃあるまいし、仕事で使ってるであろう人が何故あそこまで遅いのか。スマホとかタブレットで来てるという話でも遅すぎる。

でもさ。どういうものを書くのか分からない以上は批評しにくいからね。

そのうち転載するかもしれないけど今のところ呟き。

『こたつむり』はキャラフレ第5回シナリオコンテスト応募作、実施年で言えば2005年の作品になるわけで、私の完成作の中ではほんとに数少ない未公表作でした。その割にはキャラフレ由来ですし、率直に言えば手持ちで出せるものを出した感じ。
事情があってアバターを出せない(見ていただいた方には理由は分かるかと)作品でもありまして、表現方法は迷ったんですが結局いちばん簡単にアバター不在で回しました。

出来は必ずしも良くないです。初稿が稀にみるレベルのひどさで(雑に勢いで書くとここまで酷いのかと)、かなり書き直したんですが、ベースの悪さを辛うじて誤魔化した感じで、自分では可は付けます。でも良とか優とかはつけられない。

ただまぁ自分の書くものらしいなぁとは思うんですよね、良くも悪くも。仲のいい友人がボケたりツッコんだりしつつ掛け合いするのって私の典型だし、ミスリードさせて最後に軽く捻ったトリックを入れるのも私らしいし。そう考えていくと今の私の作品だなぁほんとに。

評判は覚悟してます。少なくとも目新しくはない。

なろう系という文化があって、どうも私は(ああいう緩いファンタジーって私は好きなはずなのに)あまり肯定的になれないんだけど、結局あの手の根底にはどこか『現実はクソだから異世界に転生すれば自分も輝ける』という発想があるんですよね。だから古典的な『行きて帰りし物語』が成立しない、比較的高い比率で現実世界での死があって不可逆性を持っている。そこで残された元の世界のことを省みることはわりと少ない。でも現実からの転生であることで、それは異世界でありながら現実の自分との連続性を有する。

頭の悪い俺つえーハーレムとか昔からあったし私嫌いじゃないんだけど、それがもう『転生』という今の現実の完全否定を挟む必要があるんだなぁ、と色々考えてしまう。

それが良い悪いを語るのは格好悪いと思ってるんだけど、そういう物語が現実でがんばろうという気持ちを読者に与えられるのかというと、私は逃避よりはもう少し前向きに頑張ってみようと思えるものを書きたいし、今のなろう系の持つ明るい絶望感にどう自分は向かえばいいのかなとか。

あ、はい。書きます。

否定はしないんよ。多分住宅街で、ふらっと人が来ることは期待されないし、最初に一定のコミュニティを巻き込むことで初動が期待できる。実際初動で人が集まりそうだし。

だけどさ、Iいねこがまともだとは思えない。品のないキャラ。近くのカフェのコラボパフェとか画像で吐き気した。地元への愛も感じないし、キャラの表記すら一定しないし由来も何もない、自分の参加主催するイベント以外はホントに言及しない。サイト見たけどレベル低すぎるし広告代理店としてありえない水準の低いサイト。そういう応援する価値のないキャラです。

取り敢えず、みんな覚えておくといいと思うよ。一年後、二年後、彼らがどうしているか、よく確かめるといい。

色々水をさすのもどうかと思うし、あそこの店主さんは開店のために真摯に頑張ってる人だと思うから今回あまり言わないことにしてるけど、Iいねこ一派の根城化してる印象はどうにも。そしてキャラフレ全体で盛り立てよう感があるのも何とも。

結局CFが今支配的なものに対して他の流れを作ろうとしてくれるのか、それの象徴が修学旅行なんですよね。
せめて分かる場所だといいなと思います。と、こっちで書く。

ま、はっきり言えば私はそのCFという狭い場所で「ステージに立ちたいと願ったけど立てなかった」わけで。CF内のステージイベントに立つって意味ではなく、注目を受ける立場になるって意味で。

前に間が悪かったとか色々書きましたけど、(敢えて書くけど)ハードルが低いこの場ですら上手く行かなかったという現実はあるんですよね……。特に人間関係という面において(前述ねほりんはほりんで観客を5人か10人か呼べたら誰でもステージに立てるって話が出てたけど、私はそういう人脈を作れなかった)。

結局さ、クリエイターというのはそれに対する受け手がちゃんといるところまで含めて実力だから……。

まぁ、だから自分をどこまで枉げられるかというと、枉げられないものを譲ってまでやるべきかどうかはまた別ですけどね。枉げることで得られる/得たいと思うものがあるなら枉げるし、そうじゃなきゃ枉げる道理はない。

書き残す。
ねほりんはほりんの地下アイドル回とかを偶々見て。……何て言うのかな。自分なりに思うことがあった。

まぁ例えばメジャーなところから全国区で売れる本とかCDとか出すとか。それを目標にする。まぁ私だってそう言ってる。

地下アイドル的な「そういう狭い世界」がはっきりしている訳じゃないけど、そこで「狭い世界で売れる」という感覚を作ろうとしているのがCFの一つの流れなんですよね。それで楽しめるクローズドな世界を形成してしまう、と。別にそれは悪いことじゃないし。

――まぁ私は物語書きですが、そういう「小さな世界で重宝されてファンがつく」ことで満足する/満足できる憧れがないとは言わない。
ないとは言わない。2回言うけど。

多分CFというのは自覚的にそういう場であろうとしてる。

ついでに言うとそういう場って関東に集中してるんですよね(コミケとかやってるはずだけど遠いです……)。CFはそういう点で地理的なものを埋められる場でもあり。それが実際にはCF関連かなり東日本にイベントが張り付いてることはまぁ色々思うけど別の話。

そこで立ち返って自分はどうしたかったんだろうと。

雑談。
創作者って二つに別れる気がしていて。

一方では自分の中で形になって仕上がるまで誰にも口出しされたくない、横槍はノイ
ズだと思う人がいて、もう一方ではどんどん思いつきを外に吐き出して、誰かに話すことで頭の中が整理される、誰かに突っ込み入れてもらうことで触媒になってどんどん発想が広がる、という人がいて。私典型的な後者なんだけど、前者も理解は出来ます。

ネトゲであるCFにも文芸部があったんだけど、そこは典型的な前者で。交流なんて面倒だ、そんな時間があったら書く、とか。そしてDTPもしっかりやって会誌を電子で作るのが目的だよね、とか。

その考えも正しいとは思うけど、自分にとっては創作者がいる場で刺激を受けることが自分にとっての所属メリットだと思ってて、だから結局文芸部志向のゲーム制作サークルという流れになった。

自分のエゴっぽいことを言うとまぁ、CFってそれなりにチャンスがあったのに、私、見事に間が悪いんだよなぁ。

応募を決めたとたんに予定の部門がなくなるとか。それで別部門に送っていたら自分が引っ掛かった回で終わってしまって放置されたとか。

あと某プロジェクトは希望しても門前払いされたとか。で、別のプロジェクトがあることを聞いていたら条件を満たしていないと駄目で、しかもその条件って最初(数年前)は「特に不利益はない」みたいに言われていたことが条件だった、とか。
その話の1期は結局その条件満たしてる人だけで最初から終わっていて、発表された時には2期も条件満たせて間に合う状況じゃなくて、どうしても参加したくて条件満たしたら3期はなかった。

あと、その後のCFのコラボに関しても、これは積極的に関わりたい、って思ったところはその後扱いが悪くて、ここはちょっと違うかな、と距離置いてたところが伸びてくる、とかね。

趣味が合わないのは仕方が無い。あととあるアレに関しては最初から「いくらなんでもあれで皆に人気が出るわけない、オタクなめんな」って言ってたら一番人気。

見る目も人望もないのかなぁ。

(承前)ネトゲというのは現実に疲れた人が休むと同時に、また元気を取り戻して現実の夢や願望に向けて卒業していくべき場だ、と私は思ってます。
それはCFに限った話ではなく、私は初めてのネトゲでクラブマスターをやってた時からそう思ってきたし、旅立つ人は快く送り出さないといけないと思ってきた。

もちろん運営としては長く続けてたくさんお金を落としてもらう方がいいですが、社会的役割ということを社長が書くならそこのスタンスは大切だと思うし。最終的に現実はクソなのか。まだ現実を信じられる私が恵まれてるのかもしれないけど。

(承前)長々と書いてきて何がいいたいかというと、結局CFという場は、あるいは今は離れてるけどGCCという場は現実に対してどうありたいのか、なんですよね。最後は現実で戦うためのステップになりたいのか、現実を変えるのは難しいから安らぎの場を作りたいのか。

私が前者を指向しているのは付き合いのある人は知ってると思います。現実に疲れた人には後者の役割も大事なのは自分自身が実感としてよく知ってます。だけど、後者で終わってほしくないという思いは私はあります。
CFはどうなんだろう、と。そういう意味でダイレクトに現実へとつなげられる後押しができる場だったと思うのですが、社長ブログを読んでいると、見えなくなっている、あるいは外から呼ぶだけで中からの力を信じていないようにも見えていて。

2.5次元が関東にしか繋がらないというのはまぁ諦めてはいますが。人口が違うんだと思いますし。

と、書きつつ最近はやっとコラボとか経由で少し発展が見られつつはあるのかなとは思いますが、特定のところに偏ってるからなぁ。もう少しバランス取れてれば。(続いてる)

(承前)私はナルニア国物語は小学生の頃に読んだんですが、最後まで読んでなんだこの展開はと子供心にびびったわけです。正直私には他の印象が吹っ飛ぶくらい強烈で気持ち悪い展開でした。

まぁナルニアの場合は神の国とか天国とかというキリスト教的概念があるわけですけど。自分の中で押さえておきたいのは、異世界を経た時に現実とか日常はどう評価されるのか。物語の上でどういう価値観が提示されるのか。

なろう系と呼ばれる一連の作品群があります。異世界転生ものが圧倒的に強いです。転生の場合は死んでて現実には戻れないですね。帰還できない。

小説家になろうの中にあった、読者がなろう系の魅力を語った文章で、現実はクソだ、とか連呼しているものがあって、その人の意見に賛同できるかは別としてそういう意見があることに驚いたわけで。
物語の世界と現実は地続きであるべきかというのはどうも好みが分かれるようですが、私は物語は現実に夢を見るための手段だと思っています。だから自分に近い人間が活躍することに意味を感じるし、チーレムとかは求めない。等身大で頑張りたい。(まだ続く)

フィクションの役割というのは現実とは違う何かになれることだと思っていて。例えば現実がしんどくてもフィクションの中なら楽しめる、というわけです。これは例えば現実とネトゲの間も同じ構造ですし。

物語の中でもだいたいにおいて主人公は日常の世界からそれを外れた世界に旅立ち(つまらない毎日にかわいい女の子が現れるのも世界の変化です)、そこでの冒険をすることになる。

この前キャラフレの方に薦められて読んだ『神話の法則』によると、物語は最後は必ずその異世界からの帰還の要素になるそうです。私には今まであまりないとらえかただったので興味深かったですね。物語上の冒険は何らかの形では終わる、と捉えました。

物語の中での日常と異世界の行き来と、読み手の現実とフィクションの行き来は二層構造になっていて、まぁ後者は必ず現実に帰還するわけですが、物語上の指向は必ずしもそうだとは限らない。

例えばナルニア国とかは最終的に現実を失いファンタジーの世界を選ぶ物語なんですよね。現実は下らないもののように描かれて、そこを離れることが素晴らしいように語られる。現実に残った子がつまらない子のように。(続)

某ネトゲの公式ブログの運営の偉い人のエントリを見た。うーん。その三つをコアパートナーとして名指しするんですね……。文脈と関係ない二つも挙げたということはそういう宣言なのでしょう。

薄々判ってはいたけど、自分が離れる引き金がぴったり揃って並んでいるのはなぁ。まぁ某カフェは単純に趣味じゃないんですが。

あの人は評価すべき人だし敬意を持って接するべき人だとは思うんだけど尊敬するべき人かどうかはまた違うと思ってて。で、副の方は友人としてはいいけどむしろ少し痛い人だよね。

相変わらずの指示語トークですが。
こう、あそこのコラボしているMさんとは離れる前に話す機会があって、まぁ誤解していた部分もあってそこは素直に謝るべきところだったけど、やっぱり自分の趣味じゃないというのは仕方ないところではある。

小さなコミュニティーの欠点って、みんなで何かを盛り上げよう! みたいな動きに対して同調圧力が生じやすいことで。ある程度の規模になると、それとは違う人たちが集まる場も作りやすかったり、あるいは複数のグループから選べたりするんだけど。誰が悪いってわけじゃないけど難しい。