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金もない、友人もない、未来もない、希望もない、だが夢だけは大いにある。

ミハイル・ベリコフ「青春讃歌」(1985)。
良く言えばソヴィエト映画らしい素朴さ、悪く言えば洗練されていない野放図を持つ作である。しかし率直に言って水準は高くない。
いきなりスタッフロールに突入するラストもさりながら、ヒロインの難病の発病と進行、原因についての語りが唐突で上手くない。ジャズの使い方についても同様である。
良い所を探せばやはりソヴィエトらしい画面の渇きであろうか。また、アメリカ文化を受容しつつ宇宙開発で競争しているというこの時期のソ連の微妙な立ち位置は面白い。
「難病の少女」モデルは本邦ではエロゲームでも多用されるほど膾炙しているが、ソヴィエトのものも本邦と構造はほぼ変わらない。この類型では今井正「愛情物語」には全く及ばないと感じた。

フェデリコ・フェリーニ「
8 1/2」(1963)。
まあ歴史的な作品なので勿論圧倒的ではあるが、何度見ても難しい映画でもある。映像としては最高の水準だが、展開には疑問と不可解さが残る。
「ボイスオブムーン」「アマルコルド」と今回の上映では全て少年時代への追憶が主題として繰り返されており、フェリーニが特に母親との関係に強いこだわりを持っていたことはわかった。今作のハーレム描写なども母親へのコンプレックスが下敷きにあるのではあろうが、しかし割り切れなさは残る。
ラストの丸投げもやはり私には納得できない。自らの見方を変えれば解放され、世界は変わるというのは観念論としてはあまりに弱く、セカイ系と水準が変わらないのではないかと思えてしまう。
実際セカイ系の出発点となったエヴァンゲリオンのTV版最終回と酷似しているので、むしろ今作こそが元祖セカイ系なのかもしれないが……。

フェデリコ・フェリーニ「フェリーニのアマルコルド」(1973)。
冒頭の綿毛が舞うショットから巨匠らしい繊細で力強い映像に魅せられるが、筋としては少年(とその家族)の日々がオムニバス的に進む、言わばサザエさん的な構成である。
うすうす感じていたことだが、今作の子供たちのある種の下品さから、やはりフェリーニとは感覚が合わないところがあると確信する。好みの問題ではあるが、映画において敢えてその下品さを描く必要があるのか、と感じてしまうのである。ファシスト党の部分だけが妙に暗く、全体の中で浮いているのも不思議だった。
しかし今作の傑作ぶりの前には好みなど飛んでしまう。筋に特筆すべきことはないが、映像が圧倒的だ。一番好きだったのは精神病の叔父を家族がピクニックに連れて行き、彼が木に登って降りて来なくなる場面だ。この挿話だけでも見る価値がある。

フェデリコ・フェリーニ「ボイス・オブ・ムーン」(1990)。
フェリーニらしい夢幻の描写が一貫して展開される遺作。フェリーニによる2、3枚のメモを元にその日の撮影が進められたというだけに思い付きのような展開が連続するように思えるが、インスピレーションに委ねる部分が大きくなければできない表現ではある。緻密さには差があるが、その意味で晩年の大林宣彦と似ている(と言うと蓮實系シネフィルには馬鹿にされそうだが)。
人物の多くが何らかの精神疾患を抱えている状況で不可思議な出来事が起こるため、それが実際に起こっているのか過剰に解釈されているのか全く起こっていないのかという、物事の前提となる規模が揺さぶられていくのが設定として上手いと思った。簡単に批評することはできない、多様に見ることのできる奇作である。
群衆の中で中年の二人が踊り始めるとマイケルジャクソンから美しき青きドナウに変わり、再度元に戻る鮮やかさ、素晴らしかった。

私は職場の自分のパーティション内にスチル写真を飾って労働から心を落ち着かせている……。

「スチル」という言葉が生き残っていることに小さな感動を覚えた。

普段自由席の映画館が事前予約制を取る時、困るのが近くに異臭を放つ客が来た時だ。自由席なら簡単に離れられるが、席が決まっていてはそれもできない。
面白いことに風呂に入っていない系の異臭はみな近似しており、個性が入り込む隙間はあまりないということだ。

古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』(2020)。
『論理哲学論考』の前期と、様々な形で遺稿を残した後期とに分けてウィトゲンシュタインの思想を紹介する入門本。
多様な論点があり、研究者として著者はそれらを知悉しつつも敢えて非常に単純化して同内容を何度も反復して初読者にわかりやすく示してくれる。そのため300頁に関わらずすぐに読了できる。案外このような本を書くことは難しいはずで、著者の説明能力の高さが現れている。
短い旅ながらウィトゲンシュタインの最後には落涙を禁じ得ない。

永田大輔・松永伸太郎編『アニメの社会学 アニメファンとアニメ制作者たちの文化産業論』(2020)。
文化産業という点を軸として様々な観点からアニメという現象を分析する。
この作に寄せられる不満は各論稿の浅さに尽きる。単純に文章量も少ないが、報告内容の薄さに不満が大きく募る。学問的な形式に則ることは学者としては当然必要なことであろうが、それによって達成されることが少なければその形式を採る意味などほとんどないだろう。特に冒頭、アニメの語りとファンカルチャーについての章など聞き取り調査するまでもなく素人に簡単に想像が付く内容で、研究の意義がわからない。
中に面白い論稿があっても、—―戦地における「アイウエオノ歌」受容の調査、労働者の実態、韓国アニメの発展史—―単独の研究としてまとまった形で読めた方が絶対に面白いので、論集としてまとめられた意義が感じられない。期待外れの本であった。

田村あずみ『不安の時代の抵抗論』(2020)。
まず大雑把な「抵抗論」の系譜を簡単に追いつつそのどれにも共感できないとした上でジョンホロウェイに活路を見出し、3/11以後の運動の中に実践としてその現れを見る作で、事前の想定とは全く違っていた。
全共闘からポストモダン、ネグリハートの議論、ケアの理論等触れられてはいるが、紙幅の大半は3/11後の運動に充てられるため、理論については簡単にしか紹介されない。誤解を承知で強引に要約すると、「自らが自らのために行うことのできる活動」こそが肯定される。なるほど運動それ自体は必要であるし、ただしているというだけでも私からは尊敬の対象だが、しかしこの肯定の論理は私には上手く肯えない。
絓秀実の素人の乱批判(国内の原発だけ批判して国外についてはスルーでは結局ナショナリズムではないか)に対する反論なども反論になっておらず、目の粗さを感じてしまう。運動の高揚感から肯定している面が強いのではないかとどうしても思えてしまう。
その意味では外山恒一のように、特定の運動をしつつ批判するという目が必要に思えて来る。

やはりロイハーグローブのバンドは良かったなあ。。。
Roy Hargrove Quintet 'Top Of My Head' | Live Studio Session
youtu.be/bMirF_WKEQA

久々に見たらあまりに良い内容で愕然とした。少し前でも本当に何もわかっていなかった。ウォルターブランディング、ダンニマー、ヴィクターゴーインズ各人それぞれに個性を発揮したソロ。しかし何といってもハーリンライリー、この静かさでこの強靭なリズム。楽器のコントロールも完璧。打楽器が多いからこそダイナミズムは小さく始め、上げるにしても少しで十分な効果が出る。ずっと鳴り続けているシャノンのタンバリンも小音量ながら基調をなしている。
Jig's Jig - Wynton Marsalis Sextet live at Jazz in Marciac 2015
youtu.be/0yGc2-wNzBg

レゾ・チヘイーゼ「ルカじいさんと苗木」(1973)。
苗木を探す旅、その道中で出会う多くの人々を通して快活な老人の人生経験が垣間見られる、孫との旅程。グルジアの田舎風景が見られるし、歌は楽しいが、やや過大評価かとも思う。面白いが、大衆劇映画としてはありがちな展開と言えばそうであり、映像含めそこまでの作ではないだろう。
とは言え見る価値は確かにある。

今日たまたまネット上で見た赤塚不二夫の自伝漫画で本作を見たと書かれていたので思わぬ符号に少し驚いた。

Show thread

アンリ=ジョルジュ・クルーゾー「恐怖の報酬」(1953)。
これも再見だが、改めて唸った。
トラックによるニトロの運搬こそが主要な展開だが、そこに至るまでに、体感一時間近くもその背景となるベネズエラの街や人物を描く。その様子を描くだけでも一本の映画として通用しそうだが、その描写があればこそニトロ運びもより血肉が通ったものとして感じられる。
初め大物として街にやってきてマリオよりも格上感を出していたジョーが、運搬を始めると加齢と恐怖からマリオに馬鹿にされ始め、更にジョーの死に至ってマリオが友人として彼を悼む様、極限状況における関係性の変化の描写が巧みだ。死もまたあっさり描かれるのはユーモアでもあろうが、醒めた観察眼のためとも感じられる。今見られて良かった。

アンリ=ジョルジュ・クルーゾー「悪魔のような女」(1955)。
初見かと思いきや以前見ていた。学校プールに浮かぶ藻のイメージの鮮烈さ。落ちも確かに面白いのだが、主題と相俟って画面のいちいちが引っかかる。校長の悪人らしさもそうなのだが、小人物風の同僚教師たちの嫌らしさの方が自らの反照として辛さを覚えた。

アンリ=ジョルジュ・クルーゾー「スパイ」(1957)。
実に面白かった。脚本の面から言うと、主人公が途中まで完全に巻き込まれているだけで主体的に何の行動にも移れず、多すぎる人物の誰がどの陣営に属しているのかさえ定かではないのだが、ある点で見事に一本化される、その筋道の付け方が上手すぎる。
普通の映画ならばそこからヒロイックに突き進むだけだが、今作ではそこからまたずらされる。落ちをどう捉えればいいのか難しい所だが、結局謎は解決していないと解釈することもできる。
最後までよくわからない精神病の娘や全員が妙な味を持つ工作員など人物の魅力にも溢れる。

ベンジャミン/ゲイブ・ターナー「メイキング・オブ・モータウン」(2019)。
モータウンもののドキュメンタリーは既にあるが、本作はベリーゴーディに焦点を当てている。ゴーディやスモーキーロビンソン始め関係者へのインタビュー満載なのは嬉しいが、予想通り既知の事柄が多かった。レーベルの流れを手軽に見るには良かった。
デトロイトの車工場(モータータウン)の製作工程を音楽にも流用できると考えたゴーディの思惑は半ば正しく、60年代のいわゆるモータウン・サウンド全盛の頃は小レーベルとは思えないほど高品質のトラックを量産している。「しかし、人は車ではない。自ら表現し始める……」と彼が言う通り、やがてアーティストがアーティストとしての自覚を持ち始めると、典型的なモータウンサウンドはなくなり始める。それだけ創造的な音が増え始めるのと裏腹に、量の面では確実に退行が示される。どこのレーベルでも見られる現象だが、難しいジレンマだろう。
後半、良い話風にまとめようとする演出には違和感を覚える。そう良いことばかりでもなかっただろう。

ミッチェルライゼン「国境の南」(1941)。
小品と言えばそうだが、期待していなかっただけに素晴らしさが身に沁みた。王道のハリウッド映画井である。
メキシコからアメリカに入るため、計略的に女性を落として結婚するが、次第に彼女に本当に恋に落ちてしまい……というよくある展開。ノワールの悪役もよく演じるシャルルボワイエだけに説得力があるが、本作の白眉はオリヴィアデハヴィランド。純粋な娘を演じさせたら右に出るものはいないが特に熱演している。三角関係の展開などよくあるが、ビリーワイルダーだけあってよくある展開を上手く見せるのが本当に上手い。
手を振るハヴィランドを遠景で見せ、ボワイエが人波を掻き分けこちら側に向かってくるラストショットが秀逸。出会わせる所を予感させる終わり方。
いつか再見したい。

ミッジコスティン「ようこそ映画音響の世界へ」(2020)。
「すばらしき映画音楽たち」に似ているが、こちらは音響についての作。構成が編年体で章立てがはっきり時代ごとになされ、後半では音響の各要素ごとに細分化して語られる。断片化してしまっている点、進行の上手さでは「すばらしき……」に劣る。
作中でも語られるが、音響については60年代以降の発展が著しいので過去作についてはあまり触れられていない。要するに映画は技術的な面で遥かにわかりやすくなったが、現代の観客がいわゆる「昔」の映画を見る時に感じる落差の多くは音周りの影響によるのだろう。「スターウォーズ」や「地獄の黙示録」は映像リマスターの影響を度外視しても、そこまで見辛くはない。
当たり前と言えばそうだが、音楽に比べると音響というのは地味で、昂揚がない。それ自体として聞けば楽しめる音楽に比べて映像の補完としてしか存在し得ず、職人的なものだと改めて感じた。

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